さてどうしたものかと考える。思考を止めない努力をする。
ああ、鼻歌まで聞こえてくる。逃げたい。逃げるなら、今しかない。

でもここは私の家であって、逃げる場所などどこにもない。いっそ鍵でもこっそり持って行って、あの人に家に立てこもってやりましょうか。いやあっさり見つかってお得意の錬金術で鍵を破壊。それどころか色々出来て自分の家の方が都合がいい、やら、逃走した等価交換だ何をしても文句は言えまい、とまで言い出すに違いない。これだから錬金術師なんて。
あの人は本当に狡い男だと思う。逃げ場所を少しずつ無くして、気が付いたらもう後ろ手には崖しかない状態を相手に感知させずに作るのが上手い。それは仕事上でもそうで、これまで何人もの犯罪者を同様の方法で追い詰めてきた。敵は勿論、味方にすら知らせないので、犯人は勿論、軍部も拍子抜けする事はよくあった。そして正気を取り戻した、拿捕された犯人に悔しそうに睨まれると、あの人はその場では睨み返すか無視を決め込む。そして後でこっそり嬉しそうな顔してざまぁみろ、と一言言うのだから、本当に性質が悪い。

それを一番近くで見続けていたのは私の筈だった。しかしその策に見事なまでに引っかかり、世界で一番落ち着くであろう自室のベッド上で何故気がつかなかったのだろうと私は後悔の念にかられる。このベッドは数時間後には死刑執行台として使用されるのだ。表現するなら火刑ね、魔女でもないのに何故でしょう。我が上官ながら、讃嘆を置かざる得ない。
しかし黙って火あぶりにされる訳にもいかないのでどうしたらこの状況を回避できるのか、あの人が我先にシャワーを浴びに行ってから試行錯誤し続けていた。あの捕まったテロリストのように顔面に唾でも飛ばせばいいのか、それともあの時の立てこもり犯のように高らかに笑って みせればいいのか。でも私の上官は平然として、いつものように「ほらみろ、さっさと投降すればいいものの」と言いながら笑ったのだ。だからそんな事をしたところで意味などまるでないのは自分が一番知っている。むしろ燃えるぞ、ぐらいは言い出す可能性の方が余程高い。

鼻歌が止む、シャワーが床を叩きつける音も止む。そしてまた聞こえてくる鼻歌。逃げる最大のチャンスは失ったので、次は私がシャワーを浴びる支度をせねば。

レベッカから貰った東洋の頭髪用オイルでも使ってみようかしら、はたまた恐ろしくて勇気がわかなかったウィンリィちゃんお手製の美顔マスクを試してみようかしら。とにかく時間稼ぎをする方法を考えるけど、シャワーなんて汗と汚れ落としの一環としか考えてなかったから稼げそうな道具は二つしかない。 まだ開けていない段ボールから使えそうなモノを引っ張り出そうとも考えたけど、そろそろ扉が開く頃だろう。そんな姿を見せたら時間稼ぎ、なんという逃げ腰、見損なったぞ中尉!と、あの人は怒るに違いない。
でもいまならあのテロリスト達の気持ちが判る気がする。物事の良し悪しは置いておいて、仕方ないのだ。後ろに崖しかなくて飛びこまざるを得ない状態なら、 あとは時間稼ぎしかないのよ。それが例え相手が焔の錬金術師、ロイ・マスタングであったとしても。
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