イシュバールにも陽は落ちる。何十人いや何百人殺そうが太陽は強制的に休戦を命じるように規則を持って沈んでいく。
戦地入りした際にあった「これで彼らを殺さなくて済む」という気持ちはロイ・マスタングの中にはとうに消失してしまった。
陽が落ちて、紅または今日の様な紫に染まる壊れかけた建物を見て思う事は疲れた、横になりたい、死屍の焦げた匂いがまとわりついているジャケットを脱ぎ去りたい。この三つだけだった。
しかしキャンプ地より遠い場所まで追いつめてしまったので、戻るのに時間がかかりそうだった。それを考慮して顔すら覚えていない部下には先に帰らせたのだが、ロイが戻る頃には辺りは闇夜に包まれてしまうだろう。
もしも奇襲をかけられたら、という考えはなかった。焔を出して脅せばいいだけの話だ、ロイはその自分の考えに半ば自嘲する。それは感覚が狂っている、という感覚すらない自分に対してだった。
軍人になると決めた時から、一般市民とは感覚をずらしてはならないと注意してきたが、この一戦であっさりと崩れ去った。だがそこを自覚したところで、その感覚を正常値に戻す気力も体力も今の彼にはなかった。
もうすでに制圧した地区に入ってるせいか人気は ―それどころか屍すら― ない。自分の足音とからからと崩れる瓦礫の音しか聞こえない程、辺りは静寂を保つ。
これだけ静かだとここが戦地だというのも忘れてしまいそうになる。ロイがうかつにもそう思い出した途端、視界に飛び込んだのは皮肉にも路上で蹲る人間だった。
あのコートは恐らく味方の者だろうか、念を入れてロイは発火布をつけ直してその人物にわざと地面を磨るように近づいた。
相手はその音に気がついて、顔を上げた。その顔を見てロイは思わず顔を顰めてしまった。見知りすぎたともいえる顔だった。だが以前に逢った時よりも更にやつれ、眼の下のくぼみは深くなっていた。
彼女、リザ・ホークアイは銃を抱え込みながら、被っていたフードを外して敬礼をした。どうやら立つ気力がないらしい。

「……ご無事でしたか、少佐」
「君も。随分と久しぶりに逢ったような気がするのだが」
「ええ、数日ほど西の方へ移動を命じられたので。今朝方、こちらに戻ってまいりました。休憩する暇もなく合流しましたので少し、疲れました」
 肩をゆっくりと揺らしながら、また俯いてしまう。きっと眠気が彼女を襲ってるのだろう。
「……もう暗くなる、帰ろう」
ロイは手を差し伸べたが、リザは自分で立てますと一言つぶやいて銃を杖代わりにするように立ち上がった。立った瞬間ふらついたので支えようとしたが、大丈夫です、とそれもまたやんわりと断られた。
そしてリザは銃を肩にかけ直しながら
「ジャケット、脱いでください。お持ちしますよ」
と、言った。
自分の眉間の谷が深くなるのがよく判った。何を言っているんだ、この女は。
「何故だ」
自身の放つ焔の熱であつくなった頬が、更に熱を持つ感覚にロイは陥った。
「……違いましたか」
「いや、言い方を間違えた。何故、そう思っていると判った」
判った、という言い方をした事をロイは一瞬にして悔やんだが、彼女はそれをくみ取る事無く、遠くを見ながら淡々とした声でその質問に答えた。
「2週間ほど前、朝からかなり冷え込んだ時がありましたよね。あの時、みなさんはコートすら脱がなかったのに、少佐だけがコートもジャケットも脱いでいらっしゃったので。戦闘中以外はそれを着ていたくはないのかと勝手に思ってました」
リザは言いながら、視線を落として歩き出した。ロイもその背中を追うように、歩きだす。

 ―――大体合っているが、君の想像するような美しい理由ではないよリザ。

まだ軍人とは言い難い細い背にそう口走りそうになったが、疲労困憊で歩くどころか立つのがやっとであろう彼女にそんな事を言う勇気がロイにはなかった。一方、彼のそんな思いを知らずにリザは自分の解釈のまま、彼に話しかけた。 少し歩く速度を落として、ロイの横に付く。
「マスタングさん」
「なんだい」
横顔は見覚えがあった。誰ではなく、自分の表情によく似ていた。言うな、それ以上、と言いかけたが間に合わなかった。
「陽が落ちると、この空の色を見ると人を殺さなくて済むと思うんです。誰かが紫色は不吉な色だ、悲しい色だと表現していましたけど、私には今や安堵を示す色としか思えなくなってしまいました」
安堵という言葉を使って置きながら、上を見上げるリザの横顔は悲愁と慈悲に満ちていた。きっと以前ならこういう顔は自分だって出来ただろうに、もうそんな顔の作り方すら忘れてしまった。

そんな想いはいずれ消え去る、ロイは誰よりもそれを知っている。
そしてここにいる限りその感情が戻ることはないという事も、リザにはそういってはならない事も彼には判っていた。
だがそれは決して彼女のためだけではなかった。彼女の中にほんのわずかだけ残っている自分に対する美しい記憶が消滅してしまう事を危惧しての結論だった。
少年のように語った夢を懐疑せず、背を押してくれた彼女に対して、いつまでも純美な自分を見せていたかったのはロイ・マスタングの中にある男の性であった。
「ジャケット、持ってくれるかい」
否定も肯定も、ましてやこの状況を深謝する事も結局出来ずに、優しい色である紫色にそまる廃墟立ち並ぶ中で、彼はまた彼女の優しさに頼ってしまったのだった。
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