「これは、何ですか」
「これかい。お礼」
なんのお礼なのかしら、と私は首をかしげる。お礼をされるような事をした記憶がない。
あるとしたら、普段の食事の提供。いえ、でもそれは随分と前に父とマスタングさんの間で解決したはずだ。
あの喧嘩はなかなか見ものだった。なんと言っても怒鳴りあいはしているが、内容は「食費を払うか否か」だったのだから。
あんな声を張り上げる父は見たことなかったし、優しそうなマスタングさんもあんな怒り方するとは思わなかった。馬鹿にしてるのか、そういう意味ではなくただ教えてもらってる分際としては、と堂々巡りを繰り返していた。
けれどもあそこから弟子を取る事に積極的でなかった父も、彼に心を許したようで今ではこうして自分の書斎を自由に出入りして良いと許可したくらいだった。
今でも二人のやり取りを思い出すと笑いがこみあげてくる。ふふ、と口元を押さえるとマスタングさんは何笑ってるの、と聞いてきた。
「いえ、なんでも。ところでこれが何を意味するのか私にはわからないのですが」
「忘れたのかい。万年筆の、お礼」
「万年筆……ですか」
「この間、私に貸してくれただろう」
確かに私はマスタングさんに万年筆を貸した。その日マスタングさんは泊まり込みで父の研究に付き合う筈だったのだが列車の中にうっかり忘れてきたとぼやいていたので、私がよろしければお貸ししますよ、今はあまり使わないですし、と父から貰った愛用の万年筆を渡した。
勿論それは帰る時に返してもらったし、マスタングさんもお礼をひとつふたつ言っただけだった。まさかそれがブローチになって返ってくるとは。
「ピアスはきっとたくさん持っているだろう。髪飾りはつける程長くないが、ネックレスや指輪はさすがに重い。それで君がブローチをしてる姿は見たことがないと思ってね」
不思議な顔をしている私へのフォローなのか、マスタングさんはそのブローチを選んだ経緯を説明し始める。
金の金具に白と青の小花と、白い鳩が二羽飛んでいる愛らしいデザインだった。私では絶対に選ばないし、そもそも買えないだろう。
「気に食わなかったかい」
「いえ、こんな高価なもの頂けません。万年筆をお貸しただけで」
私の発言にマスタングさんはむっとした表情を浮かべていた。可愛げのない言い方に腹がたったのかと思っていたらどうやら違うようだった。
「リザ、君は錬金術師の父を持つのに等価交換という言葉を知らないのか」
「知っているからこそ、です。いいですか、私がマスタングさんにお貸しした万年筆は普段はまったく使用していないに等しいものです。それがなくてあの3日間困ったことは一度もありません。それに私はもう貴方にお礼は頂いています。ありがとう、という言葉とお気持ちです。だから、こちらはお返しします」
ブローチを机越しにマスタングさんに渡そうと手を伸ばしても、腕を前に組んだまま受け取ろうとしない。マスタングさんの口がどんどん「へ」の字になってゆく。あ、面白い。
「君が父を錬金術の持つ娘である上、研究者の娘である事がよくわかったよ。確かに、等価交換は君の中では済んでいるかも知れない。しかし等価交換はまず自分は勿論、相手も共通認識、そして相互理解が必要なんだ。私は等価交換は済んでない、等しいとは思っていない。だから君はこれを受ける権利がある」
「それを言うなら私が等価交換だと許諾できないのであれば、それもまた等価交換とは言えないという事ではないでしょうか」
「……頭いいな」
「まぁ、勉強しかしていないようなものでしたから」
とりあえずお返しします、と言うとマスタングさんはまだ受け取ろうとしなかった。組んだ腕は動く様子がない。
「ちなみに聞くけど、君はそれを要るか要らないかではどっちなんだい」
マスタングさんに突きだしていた腕を元に戻して、掌にすっぽりと埋まるブローチを見る。シンプルなデザインを好む私の宝石箱には確実にない品物。それにこれを貰ったからと言ってなかなか付ける機会もない。
しかし、見れば見るほど精巧に出来ているのがよくわかる。いつも私がなけなしのお小遣いで購入している安いアクセサリーとは違う。職人さんに大切に作られて、そしてそれを目の前にいる人はじっくりと選んでくれたに違いない。
要るか要らないか、そう問われたら答えはひとつしかない。
私がすっかり黙っているとマスタングさんはほらご覧、といってにこにこしながら私を見つめていた。
「だから黙って貰っておきなさい」
「……いえ、でもこれ高価なものでしょう。余計頂けなくなりました」
「強情だなぁ。もう買ってしまったし、渡すような相手もいない。君が貰ってくれなきゃ、そいつはゴミ箱行きだ」
でも、と私がつぶやくと、いい事思いついたという様に、マスタングさんは結んでいた腕を漸くといて机を叩いた。この顔に似た顔を私は知ってる。昔、父が何かを解読した時だ。
「じゃあ解った。君が私に何かくれ」
そしてわけわからない事を言うのも一緒だった。
「何か、といいますと」
「なんでもいいし、いつでもいい」
「それは困りますね」
「困ってくれ。私だってそのブローチを選ぶのにすごく迷ったのだから。それぐらいしてもらわないと等価交換にはならないよ。あ、君の事だから高価なものを、とか思っているかもしれないがそんな風に思わなくていいからな」
マスタングさんは嬉しそうに笑って、また父の集めた本を片っ端から眼を通し始めた。
彼が見てない隙に、私はブローチを見つめる。私はこれで人生において、初めて等価交換をするのだ。錬金術師でもないのに。何をすればいいのかそれはじっくり考えよう。この人がこれを選んでくれたのと同じくらいには。
「マスタングさん、ありがとうございます」
「楽しみにしてるよ、等価交換」
本をめくりながら、マスタングさんはこちらを見ずにそう答えた。その本を追っている目をどうやって喜ばせようか、私はなんとなく考えながら日々を過ごす事になった。


 結局、それが私の全てになるなんてこの時は思ってもいなかった。
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