胸にまきつく腕は決して細いとは言い難い。けれどその腕が皆が知ってるよりも、弱い事はずっと昔に認知している。
恰好悪く上げてしまった唸り声は狭い彼女の部屋には響く。階段を昇ってきた時点でドアの前で待ち構えていた愛犬は少し驚いた様子で半身引いた。彼はそのまま私達の足元にじゃれついてくるかと思いきや、ご主人様の思いを汲んで、引いた身体をそのままくるりと返し、まだ暗いリビングへ戻って行った。ぱたぱたと尾を叩きつける音は次第に止んだ。
飼い主に似て、頭のいい犬だ。今度、いい骨でも買ってきてやろうかな。
さて、入るやいなや背中に張り付いて来た彼女。無言だし、ぴくりともしない。
「中尉、どうした」
聞いても彼女はうんともすんとも言わない。その代わり、胸の辺りを掴んでいる手が更に握りを強くした。
「言わないとわからんのだが」
「…………」
「……中尉もしかして」
「泣いてません」
期待の色を含んだ私の言葉は見事に一蹴された。
「泣いてなんか、いません」
私に言い聞かせるように中尉は言った。背に張り付いている頭が背骨を押しながら、横揺れをしているのはコートの上からでも分かる。
「涙は貴方が無能になるでしょう」
常に変わらない言葉に本当に泣いてないという確信を得て、安堵半分残念半分。
「泣いてないならどうした」
「どうもしません」
声色も普段とさほど変わらない。ただ普段と違うところといえば私のコートの布地のおかげで籠っているぐらいだ。
覗き込もうとも、私が身体を捻じれさせようとするのを阻止する腕と手の使い方をしている。待て待て、これは接近戦の時に使う技であって、何も上官相手に使う事ないだろう。あんな感触が手に残るのが嫌だとかなんとか言ってたくせに。
「……大佐」
本人曰くどうもしてない中尉が自発的にやっと動く。
「なんだ」
「目、見えてますか」
「ああ。今も君の顔を拝むのが惜しいくらいに見えてるよ」
余計です。彼女は少しだけ動いて大きく息を吐いた。暖かい空気が背に伝わる。
「はじまりましたね」
終わった、ではなく。
「はじまったなあ」
「もう前に進むしかないんです」
前に進むしかない、という事はつまりこれまで以上に安堵を求めていくことは出来ない。私にとっては数か月ぶりに訪れたこの部屋に何年も来ることはない可能性だってある。
あの全てをかけた日々とさほど変わらない非日常がずっと続くかもしれない。君と日常を過ごす事がなくなるかもしれない。

「だから、今だけ」
たいさ、とだけ言ってまた口をつぐんでしまった。いよいよ泣いているかもしれない。
確認する意味を込めて身体を反転させて、私は彼女を抱きとめた。
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