「女性は怖いな、ハボック」
いつも彼の口癖となりつつある言葉を口にしたのは意外にも上司だった。だがこれが普通の上司であるならば、話に乗っかり部下として話を聞いて、同情し自分の株を上げるところだが、相手が相手だ。むしろ自慢話に為りかねない。
指名を受けたジャン・ハボックは煙草を吹かしながらも心の中では身構える。
「なンすか、突然」
「お前……どうせ私に不幸が訪れて喜んでるのだろう。もしやあれだな、私が先々週の火曜日の仕立て屋の彼女から頂いたラブレターの件で恨んでいるな」
「……そのネタは初めて聞いたンすけど!」
「おっと、それはすまなかったな」
全く悪びれもしない彼に対しての文句は口の中で煙草のフィルターを噛む事に留める事にした。

二か月前に初めて入ったスーツ専門の仕立て屋の女の子に一目惚れしてしまった。その後彼女のためにと思って自分の同僚にスーツ作りたいなら、と彼女の勤める店を紹介した。彼の親友や、眼鏡の後輩は彼女を訪ねてスーツを注文した。 勿論、その直後のデートは「ハボックさん」から「ジャンさん」に変化した。「ジャン」という称号まではあと一度デートをすれば得られる筈だった。
だがロイ・マスタングにもその仕立て屋を紹介してしまったのが運の尽きだった。適度に顔も愛想もよく、マメ。その上ジャンには吐けない甘ったるい台詞まで平気で吐けるし、冗談もうまい。見事、彼女はロイに一目惚れをしてしまったらしく、ロイの傍らでジャンは自分の恋が砕け散った事を悟った。

「で、ハボック少尉、彼女とは」
「ハボックさん、好きな人がいるの、どうしたらいい?って言われましたよ!」
職務中にも関わらずやけになって大声でロイに言い返す事が出来たのは、今は彼の副官が不在であるから。もっとも彼女でも居てみたらまず冒頭の台詞をいう事も彼はしなかった筈なのだが。
「で、その彼女と大佐はそうなったンすか」
「丁重にお断りしたさ」
だからお前慰めてやれ、いまならうまくいくぞと言ってロイは肘を机に付き、握り拳の上に頬を乗せながら言った。

仕立て屋の彼女をはじめとしたこの世の女性たちにこの姿を見せてやりてえ。それに顔面偏差値だけでいったら、俺の方が高いだろう!?
勿論口にはしないが。

「で、大佐。何かあったンすか」
「なんの事だ…ん?ああ、女は怖い、か」
体勢を元に正しながら、ロイは拳を乗せてなかった方の頬を摩る。眉間には深く谷が刻まれている。
「昨日、殴られた」
「へえ…ってええ!?女っスか?」

俺は女に殴られた事あったけ?と、思い返しても彼には見覚えがなかった。ジャン自体、自分が原因というよりは相手がジャンの良さを引き出せないまま終わってしまうパターンが多い分、女に引っぱたかれたり泣かれて別れるという事はなかった。唯一自分の意思で振った、中央に移る直前に出来た彼女にも「あら、栄転?よかったわね」とあっさり言われた事は少しだけ虚しい。
「ああ。まずよく聞けハボック。レストランで食事をした、嬉しそうに相手がしている。そりゃあもう愛らしかったんだ。ハボック、貴様になんか微塵も見せたくないな。普段そんな顔もしない彼女だ。私にだけ見せてくれる姿は堪らなかった。で、店を出て手をつなぎました。一瞬拒まれたけど、関係なく握っていたら彼女から指を私の指の間に絡めてきたんだ。じゃあ次に可能性として考えられるのは」
ジャンは煙草を灰皿に捩じり消しながら形ばかりの考える振りをしてやった。
「普通に考えれば、キス、じゃないッスかね」
「そうだ。だから私はしたんだ。そしたら見事。口の中まで切れた」
だからか。昼飯が進まない、と言っていたのは。ジャンは先程のランチタイムを思い出す。むしろ何故ランチタイムの最中に言わなかったのだととジャンはロイの口内の傷を舌で探る仕草を見ながら思う。
「その上、キスしても口の中が血の味がするとまで文句まで垂れてだな。誰の所為だ、誰の」
「え。結局、そのあともしたンすか?」
「するさ。家でだけどな」
「はあ」
ロイは殴られたという頬を摩りながら、そのまま話をやめてしまった。
一方、ジャンはロイの真意が全く掴む事が出来ない。女に殴られたのがオチであるなら、少し前に話を膨らます筈だ。殴られた後の話が秀逸であるなら、もう一度キスをした先に何かないと面白くない。ただの自慢話だ。
いや、本当にただの自慢話だったのか?
「痣になってるかもしれない」
「痣?いや見る限りは見当たらないッスよ?」
「小さいから目立たないんだ」
たぶんこのあたりに、と言ってロイは指でコイン大の円を作って頬に当てる。殴られたという痣にしては範囲が狭すぎるだろう、とジャンは思う。それにジャンの座っている机からはロイの頬に痣は見受けられない。どんだけ手の小さい女に殴られたのだ。
「ところで大佐、グーですか?パーっスか?」
「何がだ」
「殴り方、いや殴られ方?」
するとロイは虚を突かれた顔をしながら違う、と答えた。
「チョキ?」
「目つぶしならあり得るな。彼女ならやりかねん」
「ああ、モノですか?バッグとか」
「いや、銃だ」
銃!!
そんな傍から見たら誘拐、はたまた強盗だ。ジャンはプライベートでも銃を突きつけるような女と付き合ってるのか、と感心する。
身の危険を冒してまで、女と遊びたいなんてジャンは微塵も思わない。ロイの命がけとも言える恋愛はジャンにとってはまるで夢物語のようだ。
煙草に火を付けながらジャンはロイを見る。ロイは未だに彼女に殴られた話を続ける。万年筆を持って、それを銃に見立ててジャンの方へ突き出した。
「銃で一突きだ。忘れていたよ、彼女が士官学校時代、剣術の成績良かったことを」
「そりゃすげェや。さぞ痛かったでしょうに。フラれてもまわ…さないでくだ…」
そこまで口にして、ジャンは口にくわえていた煙草を落としそうになる。慌てて灰皿に煙草を置いて服に付いた弾みで落ちてしまった灰を払う。
ランチタイムを共にしたのはロイとジャンだけではない。あともう一人、ロイの部下であり且つジャンの上官だ。そしてこの場には不在。だからこの話をするとしたらチャンスはまさに今しかないし、ロイとしては自身の恋人との仲をジャンに隠し立てする必要はないとも思っているのだろう。 それにまともに恋愛話が出来るのはロイ直属の部下は一人しかいなかった。

そりゃ殴られるっつーの!

むしろ引き金を引かなかった事が幸いとしか思えない。
「……貴様にやるくらいなら、知らん男の方がマシだな」
目が既に笑ってないロイの視線から逃れるように、ジャンは目の前の資料をぱらぱらとめくる。だが実際は資料の内容などひとつたりとも入ってこない。二人はいつからだよ、東方司令部にいた時からか?そんなジャンの想いをロイは気にも留めず話続ける。
「いや、本当に女性は怖い」
結局自慢話みたいなもんか、とジャンは覚悟を決めて顔を上げてロイに言う。

「……お言葉ですが大佐、それ中尉が怖いの間違いッスよ」
「誰が怖いですって、少尉」
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