あ、こいつ人気あったんだ、と一つたりとも残っていない学生服のボタンを見て初めて気がつく。あのダメガネは無論、ゴリラもマダオもあのマヨも(こいつの場合はシャイなのできっと女子から逃げ続けたに違いない)、ボタンは美しい金の線を描くかのように着用している主の落胆した顔を知ってか知らずか、入学時と変化なしに悠然と並んでいた。そんな奴らばかりが勢ぞろいしている3Zの悲惨な結果を見れば、学生服は漆黒であり、ボタンはひとつたりとも ―袖のボタンすら― 残っていない沖田は断トツトップの成績優秀者だと思う。
 沖田は顔にこそ出さないものの、内心はかなり喜んでいるに違いない。そうでなければ、5月中旬並みの気温を記録した今日に、わざわざ学生服を着ている必要などないのだから。
「残念ですねェ、チャイナ」
「悪いがオマエのボタンなんてひとつたりともいらねぇんだヨ」
 卒業式が終わって、写真撮影もそぞろに皆が謝恩会が開かれるホテルに移動する頃、いつもなら志村兄弟と行動し、ホテルまでの移動も一緒の筈なのに、今日は向こうの両親がいたので一緒にいるのは気まずいというか家族水いらずなのにそこを邪魔するのは悪いかな、と思って思わず断ってしまった。どうせホテルで逢うんだし、と割り切って、ロッカーに置きっぱなしの酢こんぶを取りに、一旦教室に教室に戻ってから下校しようと思った。だけどやっぱり家族の邪魔をしてでもいいから、あの時一緒に行動すべきだったと全力で後悔した。ドアを開けると沖田が窓際でカッコつけるように立っていたからだ。
「なんでいるんだヨ」
「待ってたんでィ」
 オマエを。沖田はそう言うとかつて私の席だったところに座った。最後の席は窓際の、一番後ろの席だった。沖田はその前の席。私は沖田のこういうデリカシーというか、人の顔色をうかがう気もなくあっさりと言ってのけてしまうところが大の苦手だった。
 私はドアに寄りかかりながら、
「なんだ愛の告白アルカ?」
 と、言った。
 謝恩会まであと1時間。皆、移動したので3年の教室が立ち並ぶこの階は、恐ろしい程の哀愁を漂わせて静まり返っている。どこからともなく叫ぶような女子の声もするが、卒業生ではない。大方、目の上のたんこぶがいなくなって天下を取ったつもりでいるのか、もしくは大好きな先輩に玉砕したのであろう。もしかしたらこいつからボタンを奪った女子かもしれない。
 沖田は背もたれに体重をかけて、まるでかつての私のように足を浮かせて、椅子の後ろ脚に体重をかけて座った。ぎぃぎぃと懐かしい音を立てている。
「そうだったらどうする?」
「殴る蹴るの暴行を加えるネ」
「んじゃ、避けてやりまさァ」
 逃げたかった。もしくは目が赤い人に見つめられて、記憶を抹消して頂きたかった。だけど足は動こうとしてはくれなくて、仕方なしに歯ぎしりをした。沖田が身体を揺らすたびに聞こえる椅子が奏でる音と酷似していて、耳が迷子になってしまう。沖田は見ながら呆れるようにして息を吐いた。いやいや、そうしたいのはこっちなんですけど。
 多分、こいつは私に告白する。
 数奇な運命を経て、なぜか私はこいつと3年間クラスが一緒で、その上、席も前後左右にいた。喧嘩もしたし、まともな話もしたことは数少ないが、なんとなく解ってしまう。この流れる甘ったるい空気が私を呼吸困難にさせる。やめて、言わないで。言ったら死んでしまいそうになる。
「相変わらずというか、3年間変わらねぇなぁ」
「悪かったナ」
「まぁそういう所に魅かれたのかも知れねぇなぁ…」
 ポツリとつぶやく。それを私に言ってどうするのだろうか。そうですね、あっそう、まじでか。どう言えば正解なのか私には解らないわ、沖田君。でもその中で否定の語句が出てこなかったのがすごく嫌だった。
 沖田は立ちあがって、机と椅子をうまくよけながらドア付近にいる私へとにじり寄った。近づいたかと思えば、私の頭をぐ、掴んでゆっくりと額と額が合わさる。近すぎて、焦点が合わない。顔が見えない。頭が痛くなってきて、私は瞼を閉じた。
 しかし、沖田はそのまま何も言わず、何もせずそっと解放して、そのまま廊下へ出て行った。まるで何事もなかったかのように。
 おい、なんだよ、言わないのかヨ、言わないのかヨ、言わないのかヨ!!
「謝恩会終わったあと、待ってるからナ!!」
 沖田はへいへい、と手をだらしなく上げてそのまま廊下を歩いていた。その態度にいらいらしたので大声で「ばーかばーか!!」と叫んでやった。
 顔なんてゼッタイ赤くなんてしてやんない。今も、謝恩会の後も。だけど窓に映る自分の姿は見たくなくて、そのままその場でしゃがみこんでしまった。
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