周りの人は小走りで軒下へ走って、空を見上げて憂う。人通りが多いこの通りにはいろいろな世界を持った人々が闊歩しているが、この突然の雨天には皆同じ感想を持っているようだった。全員のため息を集めて、雨雲は濃くなって、より闇に近くなる。
 人気が引いていく通りのど真ん中を歩く神楽は、誰にも気がつかれないまま―皆、一様に空を見上げているので―歩き続ける。
 彼女愛用の晴雨戦闘兼用傘の下からは遠くの、まだ雲がかかってない空と煌々と雲なしの空から恩恵を受けて照らされたビル群しか見えない。 きっとあと十分程度であの空も今まさに真上にある空と同色を帯びるのだろう。
 その空へ背を向けて、彼女は帰路を辿る。本当は公園で友人たちと遊ぶ予定だったが、この雨では帰宅している最中だろう。 それに雨は嫌いではないが、靴が濡れるのは苦手なので地面が水溜りだらけになる前に帰ってしまいたかった。
 自宅へ引き返すにつれて、店で傘を買った人々が軒下から出てくるので、人通りがじょじょに活気を取り戻している。傘をさしているせいか、 人はいつもより少ないのに窮屈で、熱と土の匂いが篭った。
 向こうから小さい子供たちが傘を持って走って来る。隣には同じスピードで人が歩いているので横へ逸れることも出来ない。 このままだと傘と傘がぶつかってしまうと思って、少女は傘をわずかばかりあげると、そのまま柄と手が離れてゆく。子供たちは何も知らないまま、笑いあいながら少女の脇を走り去っていった。
 少女は振り返り、子供たちの背中を見送るとそのまま視線を宙に浮いている愛傘に移した。自分が握っているいた柄には、 自分より大きく堅固な手が担っていた。その人物は髪の毛は勿論、長い間雨に打たれていたらしく、服は本来の色がわからないほど全身濡れていた。黒い隊服はもっと濃厚な黒へと変貌している。
「馬鹿は濡れるのが好きってほんとなんダナ」
「うるせ…」
 神楽は無言で彼の手中からそっと柄を奪って、彼はまた雨に打たれる。
「入れさせろ」
「や」
 たった一文字で申し出を拒抗すると、彼はまた器用に傘を強奪して、そのまま柄を自分の肩にかけた。 傘を失った神楽は今日初めての雨に濡れる。梅雨の雨はほかの季節の雨よりもべっとりとしていて、気持ち悪く、頬や髪の毛を伝ってゆく。
「好きな子いじめる小学生みたいなことしてんじゃネーヨ」
「じゃあテメ―も好きな子に素直になれない中学生みたいなことしてんじゃねーよ」
 差し出された傘を受け取った神楽は少し高くして、彼をそっと受け入れた。
「やさしいねィ」
「お前もナ」
 緩慢な動きで歩みを始めると、同じ小さな屋根にいる隣の男も同じスタートを切った。 それと反比例して、雨脚はじょじょに落ちてくるスピードを挙げてくる。傘を穿つ音も先ほどより強く、痛々しい。
「どこまで?」
「屯所まで」
「ざけんな、遠い」
「じゃ、万時屋まで。傘貸してくれィ」
「お前に貸す傘などないネ。銀ちゃんと私の分しかない」
「じゃ、らぶほいく?」
 本来であるなら雨音は世界を閉鎖しているかの如く、音だけではなく存在すらもなくしてしまう。 それなのに彼が放った言葉は雨にも濡れず、傘の布を打つ音にも負けず、神楽の鼓膜を揺らした。彼の声も、雨音にかき消されて聞こえなければいいのにと思った。
「随分と短絡的アルナ」
 信じられない、といった顔をして神楽は歩くスピードを速めた。 しかし彼はいつの間にか神楽の柄を持ってるほうの手を握っていた。その手はじっとりと湿っていて、神楽はう、と唸った。歩みはいつの間にか、止まっていた。
「も少し、こっち」
 その手をそのまま引っ張って、道の真ん中からぱちんこ屋の軒下まで移動する。ほかの店の軒下とは違い、浅い軒下なので傘にはまだ滴下音がした。 巨大な看板を右のついたてに、傘を左のついたてにして、神楽をぱちんこ屋の壁に追い詰める。
「随分としけた目して」
「馬鹿馬鹿しい思ってるだけネ」
「結構本気なんですがねィ」
「本気の出すところ、違うネ」
 男は空いているもう片方の手で、神楽の湿った髪を撫でた。生温かい手は決して心地よいものではない。  撫でている手、腕を辿って男を見た。ああ、うんざりだ、という顔をしている。きっと私も同じ顔なんだろうな、と神楽は思う。
「そのボンボリ、はずせ」
「いやアルこの変態警察官」
 いい終わる前に男は器用に―まるでそれが初めてとは思えない手つきで―はずして、自身のポケットにぶち込んだ。
 そのまま男の手は想像通り、髪の毛を先ほどよりも熱情を持って撫でた。髪も手も互いに濡れているせいで感触が厭らしく残る。 頭皮よりはまだ低い温度を保ったの指先が通るたび、神楽は目がぴくりと動く。
 そして男はまた言った。
「らぶほ、いかね?」
その言葉を聞いて、神楽は胸板をぐ、両腕で押して傘を奪い取った。そしてまた雨雲の下へ立った。いま、交わってしまったら何か違う気がする。想いだけあの日に置いてきて、身体だけ先走っている。まるで雲に言われるがまま、流されるがまま身を投じる雨のようにはなりたくなかった。
「次は陽が出てる日に誘ったら、考えてやるネ」
「へぇ」
「私、晴れの日に傘奪われたら逃げられないし、雨の日にべたべたすることしたくないし」
 適当な言い訳をすると、 あからさまに不服そうな顔を男はした。そんな顔をしている人の気持ちは理解しつつも、帰ろうヨ、といって傘を持って神楽は傘の中に男を迎え入れた。
 最初に二人で歩き出したスピードで、万時屋に向かう。
「八日空けとけよ」
「依頼がなかったら」
「あんの?」
「入ったらお前の運がないアル。お前、普段の行いが悪いからナ」
「俺、いいこちゃんだから。きっと大丈夫だぜィ」
「公務員のくせに公共の場でセックス求めるやつがいうセリフじゃないネ」
 男はその言葉には何も答えなかった。そのまま前を見て、とくに言葉も交わさずに二人は淡々と目的地を目指した。 隊服の男と少女が歩いてたら、周りが凝視しても可笑しくない筈なのに、皆、雨の中を歩くことに夢中で他人に目など行かない様子だった。もしかしたら私、おばけ?と神楽は思ったけれど、足も付いてたし、体も透けてない。横にいる男も残念ながら生身の人間のようだった。 いっそ、という言葉が頭に浮かんだけれど、その続きはあまりにも母親と、そして隣の男の家族に対して失礼なのでやめてしまった。
 もう万時屋が見えるころであろうところで神楽は、あ、と声をあげた。
「髪飾り、返せヨ」
 そういわれて男はポケットを探って、髪飾りを渡した。
「つけてやりましょうかィ」
「結構です」
「遠慮はいらないぜィ」
  一旦渡した、髪飾りを奪って男はまた軒下へ彼女を連れて行って髪の毛を無造作に触った。 さっきより感情の篭ってない接触の仕方は、神楽にとって好感が持てた。
 男は華の色のような髪の毛をするするとまいて(濡れているから尚のこと纏めやすかった)、だんごをつくるとそのまま髪飾りをはめた。
 神楽は手で確認した。若干左の髪飾りよりも上に位置しているような気がする。
「テメ―よりはうまくできたと思うぜィ」
 男のプライドは傷つけると面倒だ、というのは同居人と家族で痛いほど知っているので、そのまま肯定も否定もせずに男の顔を見上げた。
 梅雨入りをした六月の初旬、手をつなぐとか、想いを伝えるとかすべてをすっとばしてセックスをしたのは。言葉なんていらない、なんて嘘だと思う。 言葉があれば、この関係に不安定になったりいちいち斜に構える必要などなくなるのだから。
 それでも神楽も目の前にいる男も、そんなそぶりは見せない。それはプライドとはまた違うものだと思う。
「沖田」
 沖田と呼ばれた男は無言だった。しかし表情で、何?という顔をしているのがわかったのは明らかにここ一カ月の話であった。 街中で目が合えば銃口と剣先を向け合ってたあの時のほうがこの一カ月よりずっと長い筈なのに。数ミリの表情の動きがわかる仲のこんな容易くもなれるなんてことを迂闊にも知ってしまった。
「八日って…晴れ、かなぁ?」
 素っ頓狂な質問でも男は割と冷静に答えた。
「さぁ…。俺は結野アナじゃないですから、そんなことは存じません」
 神楽は無言のまま歩き出した。男もそれについて行くように歩いた。万時屋まではもうすぐ。 雨はいつの間にか厳かに降る小雨に変わっていたが、雲の様子を見ると終日、地面を濡らし続けるであろう。
 万時屋の階段下まで来ると、男は走っていく、といって颯爽と去って行った。それなら、最初から走れよ、と神楽はその走る背中に投げた。男の背中には何故か希望が満ちているようで、神楽はそれに舌打ちをした。こんなに私は憂いでいるのに、お前はなんでそんな嬉しそうなんだろう、と。
「てるてる坊主、つくらなきゃなぁ…」
 あめよ、もっとふって。ながく、ながく、永遠に。
 神楽は右の髪飾りをとって再び髪を纏め直してから、階段を昇った。
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