夜半に大きく鐘を打ち鳴らす目覚まし時計程、不相応なものはないとすっかり目を覚ましてしまった頭で神楽は思う。だがその目覚ましで起きるべき人物は横で未だアイマスクを外す素振りも見せない。
 初めは尋常な音を発する目覚ましに対して文句を言ったが沖田はそれを右から左、それどころか目が覚めないと一か月毎に音が大きいモノへ進化していった。だが三か月も経つと文句を言う気も失せた。そして順応してしまった自分の体性に振該した。
 枕を勢い良く抜き取ってアイマスクを外してやるとようやく沖田はむっくりと眼を開けた。
「目覚まし、鳴ったアル」
 心持ち低めで声をかけるとすっかり鳴りを潜めた時計で時間を確認して神楽の頭をぐしゃぐしゃと掻き廻す。ベッドから降りて壁に体をぶつけながらふらふらとバスルームへ向かった。
「…犬扱い、するなヨ…」
 シャワーの細く強い水滴が身体やタイルに落ちる音が聞こえるのを確認すると神楽はテーブルの上に乗っている自身の携帯電話を開いた。すっかり暗記してしまった番号を手早く打ち、その番号へワンコールをして切り、間も無く再びコールをする。20秒間鳴らし続けこれまた相手が出ることもなく切った。
 番号の履歴を消去した後、携帯を定位置のテーブルの上に置けば、神楽はベッドへダイブした。沖田から抜き取った枕に顔を埋めて後、仰向けになって天井を見ると何十年も様々な人々を見てきたといわんばかりのシミが顔の如く神楽を見つめ返してくる。
 ここへ初めて連れられたとき、明度や匂い、床の感触や天井の色や高さが余りにも今まで自分が身を潜めていた所に酷似していて安堵と同時に怖気が全身を走った。いつかこの心地よい空気に飲まれて裸体にされてしまうのではないか。もし身が呈してしまえば生まれてから調練されつづけた十数年が無駄になってしまう。
 その畏怖と神楽は一人、この沖田総悟と札がかけてあるマンションの部屋で戦ってきた。
 だがその終末も近づいている。一か月後、神楽は自身の手で「神楽という少女が愛している相手」を滅す。

「お嬢さん」
 沖田は今日初めて言葉を発した。入口で濡れた髪をタオルドライしながら寝起きの擦れた声で神楽の事を呼んだ。
 沖田は神楽のことを出会った時も、ここへ転がり込んでからも、今まで別々の部屋だったのが自然の流れで同じベッドで夜を共にするようになっても名前では呼ばず、「お嬢さん」と呼んだ。まるで神楽が偽名というのを知っているかのように。
「俺のYシャツ知らねーかィ」
「あ…乾すの忘れたアル」
「マジでかィ」
 朝、洗濯機を回したものの通り雨が降り始めてしまったため晴れたら乾そうとしていたのだがすっかり忘れていた。洗濯機の中にはおかしな匂いを放って洗濯物がぐじゃぐじゃに固まっているに違いない。
 沖田は困った顔をして夏用でも着っかな…、と言ったきり何も言わないまま再び洗面台へ戻ってドライヤーをかけ始める。
 神楽の方は身体を無理やり起こして家主よりも勝手知ったるタンスの中をごそごそと探った。奥の方から出てきたのは袋に入ったYシャツ。クリーニングに出して以来、一回も使ってないぱりっとしたYシャツ。
 それを沖田の見える位置に置いて、今度はベッドへ転がらずやかんに火をかけはじめる。沖田がドライヤーをかけ始めて3分後くらいにやかんに火をかけるとベストタイミングでコーヒーを淹れることができるのは3年、生活を共にしてきた賜物だった。
 ドライヤーの音がやみ、お風呂上がりで湿っている足の裏と床が互いに独特な音を出しながら沖田は神楽がいるリビングに来た。
「お、なんでィあるんじゃねぇか」
 綺麗なYシャツを見てそういった。
「クリーニング出したの、お前アル」
「あー、んなこともあったっけなァ」
 絶対、覚えてない。神楽はいらっとした視線を沖田に送ったがそれをうまくかわしてYシャツに袖を通した。
 やかんが目覚ましに匹敵する程の警笛のような音を鳴らして沸騰を告げる。いそいそと火を止めて、既にインスタントコーヒーの粉をいれてスタンバイしておいたコーヒーカップに勢いよく湯を注ぐ。透明な色は一気に茶で濃厚な色へ変化し白い泡がぐるぐると回転する。スプーンでかきましていると丁度沖田がズボンにベルトを通し終わっているところだった。沖田が定位置に座ると神楽はその向かいに座った。
「珍しいな、飲むの」
「なんか眠れなくなったアル」
「飲んだら余計だめだろ」
「いいの。明日寝てられるし」
「さすがニート」
「フリーターだもん」
「別に働かなくてもいいのに」
 金ならたくさんありまさァ、と沖田は言う。
「金があったらもっとかわいい服買えヨ」
 わざわざ立ち上がってすっかりゴムの伸びきった3年目のパジャマのズボンをひらひらと振って見せる。素知らぬふりして沖田はコーヒーを啜る。こんな態度にももう慣れた。
「さて行くかな」
 神楽が三分の一しか飲んでいないのに沖田は飲みきったらしくカップをそのままにしてジャケットを羽織る。
「なんか食べないの?」
「コンビニで食うからいらねェ」
 玄関へ向かう沖田の後ろに神楽はついていく。すっかり習慣になってしまった仕事に行く際の見送り。朝や昼はしないのに沖田が夜勤の場合はいつもこうして玄関まで行って見送るのだ。
「今日はいつ帰ってくる?」
「あーわかんねぇなァ。つーか今日帰れるかも解かんね」
 革靴の紐を縛るため屈みながらそう口にする。背中がいつもより小さく見える。
「珍しいネ」
「裏組織のアジトに乗り込む。割とデカめの」
 でかい組織。神楽の心臓は爆音を鳴らしはじめたが平静を装った。やっぱり私は女優アル、と全然平静じゃない頭の中で思う。
「へぇ、どのあたりで?」
 そのへんには出かけないようにするヨ、どんぱちに巻き込まれたくないヨ、と付け加えて自然な質問へ持っていく。
「……………かぶき町」
 確証があるわけでは決してない。違うかもしれない。
 だが沖田にはおかしな癖があった。何か大きなヤマがあると靴を必ず左から履く。そのヤマが重要であれば有るほど入念に紐を結ぶのだ。今回はよほど大きな裏組織なのだろう。証拠に未だ左の靴の紐を結んでいる。そしてこの癖に気が付いているのは恐らく神楽だけだろう。
「帰ってきたらおいしいもの用意するアル。何か食べたいものあったらリクエストするヨロシ」
 その一言でようやく右足の靴の準備に取り掛かった。右は左の半分以下の時間で終わった。沖田はようやく立ち上がった。
「いつもメイン料理は俺が作ってるくせに偉そうなこというんじゃねェやい」
 神楽はにこり、と笑うと沖田も少し顔を緩ませた。神楽の髪をくしゃりと掴んで少しだけ引き寄せる。沖田は玄関のたたきにいるので互いの顔はいつもより近かった。
「神楽」
 一瞬、誰が口にしたのか解らなかった。しかし神楽は自分で自分の名前を呼ぶような子ではないのでどう考えても沖田だった。先程の心音よりも大きく鳴ってるのはよく解る。
「…何アルか」
「もし俺がここに帰ってきたら、神楽、お前もここに帰ってきてたらどこか、遠くへ行こう」
 もう一人の冷徹で人を殺すのも容易い自分がいなければ思い切り涙を流していたに違いない。恐ろしいほど温かい手が神楽の頬を撫で上げ神楽の中の全てを吐露させようとしている。させようとしているんだ、と言い聞かせて神楽はなけなしの演技でうん、と答えた。
「どこ行きたい?」
「食べモンのおいしいところ」
「じゃあ北海道か…イタリアでもいくかィ」
「じゃあお金貯めなきゃ」
「だーかーら、金はあるって」
 にや、と互いに笑ってきっと叶いそうにもない夢を見る。頑張れば、命を張って頑張れば、大切な人を全て捨てれば叶う夢。
「そうご、だっこ」
 夢から覚めようは神楽は唐突に言った。答えを聞く前に腕を広げてると沖田がその領域へ入ってくる。ふわり、と体が宙に浮いて、広げた腕はそのまま沖田の頭を抱き込んだ。風呂上がりのせいか石鹸の匂いがいつもより濃厚でその上にコーヒーの匂いまで乗っかってくる。ついでにキスでもしようか、と思ったがなんだか気が進まないのでやめておいた。
「新婚みてェ」
「あほ」
 頭をぽかり、と叩くと床に下ろされる。もう冬の入口に入っている真夜中の床はひどくひんやりとしていて、その冷たさは足の裏から全身に渡った。それは現実がぐ、と近づいてくる感覚に似ていた。
 沖田はドアノブに手をかけようと背を向けたが神楽が珍しく引き留める。ジャケットの裾を伸びそうなほど引っ張っていたので沖田はやめてくだせェ、と懇願すると神楽はあっさりと手を離した。
「そうご、お前変な癖あるヨ」
「癖?なんだそりゃァ」
「でも教えないアル。明日帰ってきたら教えてやるヨ」
 また笑って神楽は手をばいばい、と振った。
「じゃあいってくる」
「いってらっしゃい、お土産頼むヨー。卵がけご飯50杯でヨロシ」
「ざけんな」
 いつも通りの別れの挨拶をして沖田は近所迷惑にならないよう、そっとドアを閉めた。
 鍵をがちゃりと閉めリビングへ戻ると聞き耳を立てていたかのようなタイミングで携帯電話が鳴った。名前表示のない初めて見る番号だが神楽は躊躇せずに出る。
「よろずや」
 と神楽が言うと相手は
「さいこー」
 と答える。そして間もなく男は神楽に捲し立てる。
「おまえさー、時間の計算ちっとも出来てねぇじゃん。連絡20分後って送ったのお前さんよ?だから銀さんは算数はしっかりやっとけとあれほど」
「銀ちゃん、盗聴してた?」
 相手の忠告も無視して神楽は被せて質問を投げる。相手はむ、っとしたがその質問に返答をした。
「リビングまでは聞こえてたけど玄関に向かった途端、声が遠くなって聞こえなくなった。つーかお前、玄関に仕掛けてないだろ」
「壊れたアル。取り替えに来てヨ」
「お前なぁ、そーゆーことは早く言えって俺は口を酸っぱくして日ごろお前に」
 上司である銀ちゃんこと銀時の小言を無視してその後ろの声に集中する。仲間である新八とお妙が言い合いをしつつ和気あいあいとしている声だ。お妙は3年前、新八に関しては4年前以来、逢っていない。久しぶりに聞く声に二人とも生きていたと解って安堵する。目を瞑れば思い出す風景。ひっそりとしたアジト、湿気が多いけれど不潔感は感じさせない。そこで新八を馬鹿にしたり、お妙の料理を我慢しながら食べたり、銀時に甘えたり。思えば神楽にとってはあのときが一番幸せだったような気がしていたが戻りたいとは今は思えない。
「で、お前聞いてんの?」
「ごめん、全然聞いてないアル」
「ったくよー。ま、いーや。こっからが本題。拾われてる可能性あっから一回しかいわないぞ、よーく聞け。明日、実行」
 今日は本当に心臓が忙しい。大きく鳴ったと思いきや今は静寂を伴っている。目の前は真っ白になったり真っ暗になったり、二色を繰り返す。意識は遠くへ行ったり来たりしてどこが自分のいる場所がどこだか分からない。
「明日?」
「あぁ、明日だ」
「随分と急だね、一か月後って言ってたアル」
「ここがバレたら困るからな、早目に手を打っけとつーボスの命令。お妙も早く帰ってこい、って五月蠅ェし」
 頬に涙が伝うのが分かった。この3年間で初めての出来事だった。偽りの涙なら何回も流してきた。その時の涙はまるで水だった。だけれど本当の涙は熱くて、綺麗ではない。穴という穴から水分が流れ出している。
「まー終わったら沖縄でもフランスでも行こうや。お前の慰労を兼ねて」
 な?、と何年ぶりか解らない神楽の本名を口にした。だけれど銀時の言葉に神楽は頷けなかった。もう昔と変わってしまったのだ。神楽も銀時も時代もあの沖田だって。変わってしまったのに誰も気がついていない。否、気がつかないようにしている。気がついてしまったら、意識してしまえば全員が傷ついてしまうから。
「銀ちゃん、気をつけてね」
 泣いているのがバレないよう涙を拭うことも鼻水をすすることもせず神楽は銀時に忠告した。
「…なんだ、いきなり」
 不審なそうな声で神楽に問いかける。
「明日、銀ちゃんも私も新八も姐御もバーサンもみーんな厄日アル。ついでに言うならターゲットも」
 電話の向こうでは意味不明だよと言う。その声は三年前の銀時の顔を記憶から引き出してくる。それが余りにも悲しくて神楽の大粒の涙が零れ落ちた。携帯電話は壊れてしまうのではないのかと思うくらい濡れてしまった。
「…わけわかんねぇなー…ま、気をつけるわ。もう切っていいか?」
「いいよ、うん、切って」
 幾許か時間を置いて携帯電話は沈黙を始めた。神楽は玄関へ向かい携帯電話を手に持ったままドアに寄り掛かる。
 もしここで沖田が戻ってきたらどうしようもないなぁ、なんて思いながら神楽は大声で泣いた。
 その声で目が覚めてしまったのか隣人が薄い壁を叩く音がする。苛立っているのがよく理解できる音。
「ごめんアル」
 その相手は銀時なのか、沖田なのかはたまた隣人へなのか、神楽自身もそれは判らなかった。
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