いつもこのひと時だけ少女に戻る自分が好きではない。もう全て甘やかされていた記憶も権利もあの日よりもっと前に置いてきた筈だった。
 しかし、この人はタイムリープするかの様に私を少女まで戻してしまう。記憶どころか権利までも私の前に無条件に抱き、空いている片方の手をどうぞ と差し伸べる。結構です、と断ってもそれでもしつこくつけ回す。大人になってしまった私は 観念して、その手を取ると彼は笑顔を見せて全てを甘受する準備を始める。
「毎回思うけど、随分と柔らかいな」
「どこを触りながら言ってるのですか」
「どこ触ってるか言った方がいい?」
「いえ、結構です」
 柔らかいというのはそういう意味ではなくてね、と大佐は私の耳元で言った。身体が芯が入った後、一気に何かが抜ける。 けれどそれを悟られるのも、癪に障る。悟られませんように、と私は願いながらどういう意味ですか、と聞いた。大佐曰く、柔らかい 所を弄っていた手を止めた。
「まぁまぁ」
 大佐は何かを誤魔化すように言うと、またべたべたと触り出した。彼是30分近く、大佐はこれを 繰り返している。正確にいえば、私が目覚める前からそんなことをしてるのでもっと触っていたのかもしれない。 よく反応もしない私に対してよく飽きもしないものだと尊敬の念すら覚える。それにそろそろ私は出かける時間で、いい加減にしてほしい。
 カーテンの隙間から見える空はあと少しで夕方になる気配を見せている。その様と大佐が行っている行為の所為で私は息をどっと吐いた。
「君、随分と失礼だね」
「夜勤なんでそろそろ出かけなければならないんです」
 私に絡まっている指を一つ一つ外すと、また一つ一つ私の身体に絡まってくる。これではただの堂々巡りである。 本当にそろそろ時間がないので、手の甲をつねり上げると無言で手を離した。
 ベッドから降りて、落ちている服を拾い集めながら支度を始める。このようにベッドに彼を置いて支度を始める時は なんだが自分が情けなくなる。普通は逆では、と思う。そして女としての自分が残骸のようにあるのだなと実感をするのもこの時ぐらいだった。 何を物差しにして普通というのかは解らないが、この関係が普通ではなく、更には自分が少女だった頃に思い描いていたものとは 大きく外れている事ぐらいは理解できる。
 そして私がこんな風に支度をする様子を彼はどんな顔で見てるのか実は私は見たことがない。見るのが怖かった。
   普段の私ならどんな顔を見たって何とも思わないし、もし思ったとしても無能ですね、という一言で済んでしまう。けれど、少女 の頃にすっかり戻ってしまっている私に、今のロイ・マスタングを見る勇気とそしてその精神状態を受け入れる余裕はない。
 上書きしたくない、という気持ちも多少はある。あの綺麗な思い出を語った、彼を尊敬というまなざしのみで見てたあの横顔を、私は 未だに鮮明に記憶している。

 ロイ・マスタング。二人しかいなかったあの狭くて冷たい世界に、果てのない世界から熱を持ってやってきた人。父は勿論、私も惹かれざるを得ない、といっても過言ではなかった。
 彼の父との勉強会の合間にしてくれる話はいつでも面白く、機知に富んでいた。ユーモアとまじめさを融合させいつでも私を楽しませてくれた。今まで私が聞いてきた面白い話の五本指中、三本は彼から聞いた話だった。 プライドが高いのは玉に傷だが、自虐的な話も織り交ぜるのでマイナスになる程度ではなかった。彼は父と少しの友達と本で成り立っていた私に目に見えるものに色が付き、耳に聞こえるものにはリズムがつけさせた。
 そして彼は無条件に ―もしかしたら何か裏があったのかもしれないが― 優しかった。今まで父に近寄ってきた者で私を利用する者は何人もいた。しかしそのような人間を徹底排除した父が彼に対しては注意喚起すら しなかった。たとえ裏があったとしても、その優しさに自分とそして自分の娘を受けてもよいと判断したのだろう。
 彼は恐らく下心なしに私とそして、私が好きなものにまで優しく接してくれた。 極東の国の摩訶不思議な童話、母は苦手だったけど結構好きだったハーブティー、愛着が沸きすぎてぼろぼろの犬のぬいぐるみ、小さい時に物置から見つけたレプリカ銃も、 それらに対しても一括して彼は優しかった。それを色々と幼かった私にとって、全てを受け入れてくれるものだと勘違いしていた。
 だがあの時の私はロイ・マスタングという男に陶酔していたと言ってもいい。最低でもあのイシュバールで、照準器越しに見た彼をみるまでは。
 私の兄であり、弟であり、父であり、親友であり、恋人であった、ロイ・マスタング。
 
 あんな気持ちになる事は二度とない― この想いは覆ることはないでしょう? いえ、覆してはいけないの、いけないの。何度も何度も繰り返す。
 職務中も、二人っきりの時もこんな風に思うことはない。それどころか自分がかつて彼に対して抱いていた感情すら忘れてしまいがちなのに、 流れるままにセックスした後はいつもこうして言い聞かせていた。まるで言い聞かせていないと、どうにかなってしまうかのように。
 ドアノブを握り、ではまたといつも通り振り返られず、そのまま別れを言おうとするとドアノブがいつもと違う感触がした。後ろから、すでに大佐がドアノブを握っていた。薄暗い部屋の中では、後ろに人が立っても 気がつくことが出来なかった。ドアノブから急いで手を離した。
「柔らかい、と言ったけど訂正する」
 頭の上で発せられる声は決して機嫌のいい声ではなかった。先程のようなくぐもった声でもなく、数時間前に聞いた思わず熱くなるような声でもなく、いつもの大佐と呼んだ時に聞こえる理性のある声でもなかった。
 どんなに恐ろしい顔をしているのだろうか、恐る恐る振り返るってみた顔は、今までに見たことがないくらい悲しい顔をしていた。もしかしたら、 いつもこんな顔をしていたのかもしれない。否、させていたと表現した方が正しい
「君はいつもここを出ていく時、違う男の事を考えているだろう」
 大佐は抱きしめたり、肩を強く持ったり、キスしたり、胸倉をつかんだりすることはしなかった。ただ嫉妬と不安を混ぜたような眼で私を見つめていた。 その眼に、かつてのロイ・マスタングは微塵も見当たらなかった。熱くて優しいマスタングさんはどこにもいない。この表情に優越感を抱ければ、それは本当に女として幸せなのかもしれない。
「いえ、そんなことないですよ」
 自分と、今のロイ・マスタングに嘘をついて私は頭を彼の胸板に飛びこませた。少女から、いつもの私に一刻も早く戻るように。嘘っぽい柔和な笑みを浮かべて。
inserted by FC2 system