彼女が梅雨明けだと知ったのは結野アナの晴れやかな笑顔から発せられた言葉からだった。それに加えて別スタジオのアナウンサー達は、 TVの前で絶句している彼女のことなど知る筈もなく、よかったですね〜、と常套句な感想を加えて次の話題へと移った。
 チャンネルでも回そうか、と思ったが他の局も天気をやっていたら再び苦い思いをするのは目に見えていたので、切った。 どっと溢れる疲労感を収めるためソファーにねっ転がったら、間もなくインターホンが鳴った。
 体は動かないし、何せ気分が乗らない。 居留守でも決めてかかってやろうか、と彼女は思ったが同僚である少年が愛想よく出て行ってしまった。少年と訪問者は何やら話しているようだが、 彼女がいる場所からは内容までは判らなかった。少しすると少年が彼女が寝転んでいる部屋までやってきた。
「神楽ちゃん、沖田さんだよ」
 彼女の名前を呼ぶと、少年は間髪いれずにどうして沖田さん?と言った。 しかしその問いかけに神楽は答えもせずに、ため息を吐いたあと、ソファーからむっくりと起き上がって、 出かけてくる、じゃーな、と残して待ち人がいるであろう玄関に向かった。きっと少年は不服そうな顔をしているだろう。
 廊下でぐだっとした顔をしてうつらしていた愛犬は彼女の動きに反応したが、 彼女が触れず、アイコンタクトを送ると先ほどよりも割増してぐだり顔をして熟睡をしはじめていた。あー変わりたい、と神楽は思った。
 玄関に行くと訪問者の姿はなく、ドアだけがぽっかり空いていた。わざとゆっくりと靴を履いて、 玄関の靴箱の上に放りっぱなしだったポシェットを肩にかけて、傘立てから傘を抜き取って外へ出た。
 空が梅雨明けとはいえ、空はまだ霞がかっていて吹いてくる風もまだ湿気を多く含んでいるようだった。なぜあと一日でよかったのに、 雨をもたらしてくれなかったのだろうか。しかし、雨が降ったところで訪問者が逢瀬を諦めるかといったらそんなことはないのはよく理解していたし、 ここまでこだわっている自分もなんだか馬鹿馬鹿しいのだが。
「うーむ」
 傘を開きながら唸ると、その声で訪問者は彼女のほうへ振り向いた。訪問者は階段の踊り場で待っていた。
「おっす」
 珍しく挨拶なんてするから梅雨が明けてしまうのだ、と神楽は思った。
「何?」
 見下すように、階段の上から踊り場にいる人物に言葉を投げた。
「なにって…遊びにいくんだろィ」
 いきますぜ、といって一段階段を降りたが、神楽の方がまったく降りる気配を見せないので二段目に足を降ろすのやめてしまった。
「おい」
「いやアル」
 その一言を聞くと、沖田はその場で座り込んでしまった。神楽の方はそのまま岩のように動かなかったが、沖田も沖田で神楽のほうを 見ようともしないので、わけもなく沖田のつむじを見つめた。それは海原にある渦の如し。飲み込まれてしまいそうだった。
「なにキレてんだよ」
 まるで渦にいる怪物から発せられた言葉のようにそこから聞こえて、神楽はびくりと体を揺らした。 平静を取り戻そうと、一呼吸おいて彼女は答えた。
「…別に」
「いや、怒ってるだろ」
 そう言われた神楽は傘の先をお天道様ではなく、沖田の方へ向けて表情を隠した。怒ってなどはいなかったからだ。
「まぁ、怒ってろ勝手に」
「言われなくても、そうするヨ」
 今までのように、近いのに遠い距離を並行に保っていければ一番よかったのに、いまや均衡はすっかり乱れてしまってこのままだときっと大きく距離を 離す可能性が未来に待っていることになるだろう。 そうなったらそうなったでいいのかもしれないけれど、無自覚が自覚、そして確信してしまう過程が一番辛いことを知っている。
 もうそんな思いはまっぴらごめんなのだと、神楽はある日の相合傘からそう言い聞かせてきた。そして今も。
「俺、今日誕生日なんだわ」
 脈絡もないことを突如として言ったので、神楽は思わず傘をあげてしまった。先ほどと同じ位置に着席している 沖田と視線が交わった。彼はめんどくさそうな目で、神楽を凝視していた。
「なに、怖がってんの?」
「怖がってないアル、馬鹿にすんな」
 表情を悟られぬよう、また傘の先をもたげると動きは止められてしまった。傘はぴくりとも動かない。 沖田が傘の先を掴んでいるらしく、浅い呼吸まで聞こえてくる。
「怖がってんじゃねぇや」
 聞いたこともないような声で彼女に詰問をすると、目を合わそうと強制的に傘を奪われた。今日、一番近い距離で彼と目が合った。
 目は見れないので、視線を流すと額には汗が流れ、着物の首元は乱れていた。
「怖がってないアル」
「いーや、怖がってるね」
 首元を掴まれ、親指以外の四本の指が首筋を撫であげる。
「つめてぇ」
「触るなヨ」
「別に、いいじゃん」
「触るな」
「逃るんじゃないぜィ」
「逃げてない!!触るな!!」
 大声ではないが、語気を荒げると沖田は漸く手を離した。 沖田はそのまま一歩後退した。首を弄んでいた手はちゅうぶらりんと垂れ下がって、もう片方の手は神楽の傘を 握っている。神楽は陽の下のさらされて、体中がぎしぎしと唸っているがそれは気にしてはいられなかった。
「…もうやめようぜィ、かくれんぼは。梅雨も明けたんですし」
「隠れてないネ」
 神楽はその場にしゃがみ込んで、顔を伏せた。どこまでもふてぶてしい沖田の顔など見たくなかった。沖田も一緒にしゃがみこんで、神楽に 日陰を提供した。
「せめて今日誕生日なんだからよ、俺と楽しいお遊びでもしようじゃありませんかィ」
「楽しい遊びって、何。セックス?」
 沖田はそのまま答えなかった。
「それなら私じゃなくてもよくね?こんなことになるなら、殴り合いしてたほうが100倍マシ」
 いいのだ、これで。いっそここで引き離してしまおう。ずっと悩んでいるのは嫌だもの。ずっと思っていた言葉を ずらりと頭の中に並べていく。
「お嬢さん」
「…」
「何か勘違いしてませんかィ?」
「なにそれ、どうせアレダロ。そういうの同意だったじゃん最初からっていいたいんダロ」
「もっと違う言い方をしてやろう。てめぇみてーな女に誰が性的対象に見るかっつー話」
 声もあげずに驚嘆して、神楽は顔を上げた。思っていたよりも、沖田の顔が近くにあった。その神楽の様子は無視して、沖田は同じ調子で進めた。
「胸もなけりゃ、ケツも出てない、くびれなんて見当たらない鼻糞ほじるわ、ゲロ吐くわー、そんな女に普通の男はオカズにもしないぜ」
「セックスしといてそれはないダロ」
「余程の変態か、もしくは余程お前に惚れてるか、どっちかだと思いますがねィ」
 神楽はそのまま絶句して、またうつむいた。恥ずかしいにか、くやしいのか、うれしいのか、神楽にはキャパシティがオーバーしてしまいそうだった。
「俺は、前者と後者どっちだと思うかはお嬢さんの判断に任せますが」
 沖田は空いている方の腕で自分のもとへ引き寄せて、そう囁いた。うつむいたまま神楽は視線を泳がすと、地面にはアリが二匹、水溜りを避けるようにしてくねくねと歩いている。万時屋の定春の おこぼれでも頂戴する気なのだろうか。うようよと仲良く歩いていた。時には山を、時には谷を越えて彼らは進んでいった。
「じゃじゃ馬なお嬢さんに、猶予を与えてあげましょう。今日はボクの誕生日ですから」
 沖田はすくり、と立ち上がって偉そうにそういった。
「ナニそれ」
「二択だし、間違えようがないんですがねィ」
 さぁ、行きましょうや、と言って沖田は神楽の手を取った。階段はまだ梅雨の湿気を含んでいて、音は響かない。 手には傘を、もう片方の手には神楽を握り、かぶき町を歩く。ここまで来てしまったら、この快晴の下、神楽は逃げられないし、隠れられない。横に並んで、 梅雨の逢瀬よりもっとゆっくり歩いていた。
「どこ行くアル」
「俺の行きたいところ」
「どーせ、らぶほとか言うんだろ」
「それは最後に取っておく。あの国でいうとエレクトロニカルパレードのようなもんだから、それ」
「死ネ」
 じょじょに気温があがってくるせいなのか、それとも冷たかった体が熱くなってきているからなのか、掌はどんどんじっとりと熱さを持ってくる。 それが前者が正解なのか、後者が正解なのかはまだわからない。
「おきた」
 神楽は横にいる沖田の顔は見なかった。そのまま、前を見た。このまま進めば離れるのかもしれないという畏怖にさらされてはいるけれど。
「誕生日、おめでとう」
 まだ湿気が多少残る空気の中には大きく響かず、神楽は安堵してそのまま手を握り返した。
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