この3年間、唇を重ねた回数は思い出せない。だけれどその瞬間だけは全てを忘れた。自分の立場も、愛すべき母国の事も。
最後にキスをしたのは昨晩だった。珍しくキスを何回もせがんだら無愛想な顔もとても嬉しそうにしていた。
そんな姿を思い出しながら、彼の机からこっそりくすねた軍の機密書類らをカバンに入れる。
そして久しぶりに黒い服を着、コートを羽織って彼が帰ってくる前に部屋を出る。今日は夜勤だとは言っていたがいつどういう形で帰宅するかは解らない。
鍵をポケットから取り出して、差し込んだところで閉める必要なんてないじゃない、と彼女は思ったが、そのまま右に回して再びポケットへ仕舞った。
深夜、新月、川沿いを早足で歩く。深夜でもイギリスの中心地であるから人はちらほらいるものの彼女には誰も気がつかないようだった。
マンションが見えなくなったところで今一度カバンの中を確かめる。3年間、このためだけに彼の偽りの彼女を演じ続けてきたのだ。絶対に失敗は出来ない。中にはシークレット、と判が押された封筒が3つ、そしてフロッピーディスクがまとめて入れてあるスケルトンの箱。そのスケルトンの箱を目を凝らしてみると明らかにディスクとは異を放つ箱型のものが一つ。
ベンチに座ってその箱を取り出して開けてみると中には指輪が一つ。裏側には彼女の名前と
彼の名前が彫られていた。
彼女は唇をぎゅ、と噛みしめた。寒さでいつもよりずっと痛い。本当に痛かった。
よかった、貰わなくて。ほんとうによかった。
その指輪を目の前の川へと投げ捨てた。だけれど指輪が川へ落ちる音は聞こえなかった。
彼女は仲間の車が待機する地点へと走った。その姿はまるでその指輪から逃げるようだった。
これが彼女にとって生涯最後のロンドンとなった。