「へ」
 ふさいだ唇は想像より薄く、想像よりも柔らかかった。
 掴んだ手首は想像より細く、近くで見る目にかかる睫毛は想像より長い。
 全てが自分の想像を越えていった。
 ただ殴られた頬は想像通りの痛さではあったが。

 ポケットに手を突っ込んでみるといつもの布地の感触が無いことに気がついた。右、左、再び右を調べないという事実に肩を落とす。
 昼飯を食べる元気もないのに、昼寝すらしっかりとさせてくれねぇのかィ、と自問自答したのは沖田だった。
 昼休み、犬の餌ともとれる土方のマヨネーズ弁当を見て みるみる内に食欲が減退していく感覚に囚われその本人に厭味を残し教室から退散した。 しかしそれは土方、そして同じく昼飯を共にしていた近藤への理由づけであり真の理由はもっと違う処にある。

 じょじょに暑くなっていくこの季節は昼寝族の沖田にとっては決していいものではない。 昼寝するには最高の季節・春はすっかり夏に侵食されこの校内で昼寝する場所は限られてしまっている。そのうえ昼寝の相方はポケットには不在。
 階段を昇り重く錆びついたドアを音を立てて開ければ厭味な程眩しい太陽が燦々と照らしていた。 じりじりという音が聞こえてきそうな程、地面は熱を帯び、ここで寝転がったら焼けた後、溶けるだろう。 夏以外なら最高のポジションであり、日向ぼっこにはここほど最適な場所は無い。
 しかし木々の木漏れ日が涼しげな中庭では山崎がバドミントンの昼練の真っ最中、空き教室は尽く他のクラス の人々に占拠されており、泣く泣く屋上に来た次第である。
 唯一の日影である建物の影に入り込めばそこそこに風通しはいいし、なんせこんな日だから人っ子一人いないため静寂を帯びている。もうSHRまでさぼったれと思いながら日影に入り込むとすでに先約が居り、沖田は身体を大きく揺らした。
 先約とは沖田の相方・アイマスクをして大の字になって寝る神楽。
「何してんでィ…」
 そういってもまったく起きそうにない神楽を見て沖田はハァと溜息をつく。建物に反射してやけによく聞こえるその吐く音に更に溜息をつきそうになってしまう。
 沖田は涎を垂らしすやすやと眠る姿に心の底から苛立ちを覚えた。食欲減退の原因も、わざわざ理由をつけて教室という場から逃げて来たのも 昼寝に勤しもうとしたのだって元はと言えばいままさに目の前で人の気も知れずにいるであろうこの少女だった。

 なんでこんな女に振り回されてるんだろう。
 馬鹿馬鹿しくて仕方がない。

 正直、彼は昨日のことは思い出したくもなかった。
 キスの一発でもすりゃ自分も向こうも何かいい方向へアクションを起こすと思ったのに沖田に残るのは後悔だけだった。
 キスをした喜びなど唇が触れ合った瞬間と殴られるまでの数秒の話。 考えれば考えるほど苛立ち、その上時間が経つほど何故か眼を閉じる前に見えた一瞬の景色だとか、キスした瞬間まるでBGMの如く子供が鬼ごっこで大騒ぎをする声だとか、 寸前まで食していたであろうガムと酢昆布が混じったような味と匂いに神楽が不意に落としてしまった傘が自身の靴に当たる感触が蘇る。
 それは夜の睡眠時にもお邪魔虫となり、繰り返し思い出し昨夜はまったく寝付けなかった。
 だから今猛烈に昼寝をしたい。
 無論、彼女には会いたくなかったし、隣の席にいるのは勿論、声すら ―しかも昨日のことはさも忘れましたの如く、高いテンションであったため― 聞きたくなかった。
 だからそそくさと教室から退散した。
 殴られた頬は痣こそ出来なかったものの、口内を切ってしまい流血にしながら帰路についた。 そして今日もその痛みは続いており、塩分のあるものは悉く沁み、その上今日の昼飯はよりによって姉の作った激辛弁当である。
 だから弁当を食べる気なんてする筈もない。

 全ての元凶をしょい込む神楽から逃げてきたのに、何故か自分のアイマスクを使って昼寝を決め込んでいる。

 おそらくこのアイマスクは理由は解らないが先程の体育の時間に制服からこっそり頂戴したのだろう。 アイマスクは神楽にとっては大きすぎるため顔の半分くらいまで隠れてしまっている。
 沖田はぐしゃぐしゃと髪をかきむしり、気付かれないよう音を立てずにしゃがみこんだ。空を見上げれば沖田の気持ちなんぞ露知らずという程の晴天である。彼は舌打ちをし、壁に寄り掛かった。
 耳に聞こえてくるのは「よっしゃー!!」と馬鹿騒ぎな声…恐らく山崎であろう声と 空には見当たらないが飛行機のエンジン音が風の具合からかよく聞こえた。数秒するとようやく飛行機の姿が見え、飛行機雲を描きながら向こうへ飛んで行った。
 飛行機が見えなくなったのを確認すると、沖田は神楽に手を伸ばした。はじめは気がつかれないよう髪飾りの部分を、そして次には少しだけ露出している頬を包むように神楽を撫で上げる。
 今までこんな風に優しく触れてやることなんてなかったのに、昨日覚えてしまった感触に再びありつけたらと本能的に思った。 キスしようとした際に触れた肌は想像よりも柔く、夏なのにひんやりと冷えていて余りにも刺激があり過ぎた。
 あんな眠れない夜を過ごさされて、言い訳を作ってまで教室から出て行かされて、飯もまともにありつけないほど口内を怪我させられといて。 それでもあの感触を匂いを声をもう一度味わいたいと思っているのだ。
 こんなにも、ひどい目に合わされているのに。

 今触っている神楽の頬はひどく熱く、少しべたついたため昨日より滑りが悪い。昨日は夕方というのもあり汗は引き、冷えていたのだろう。
 沖田の手自体、昨日よりも汗ばんでいるのもある。昨日は躊躇いもなく、彼女に触れた。緊張などなかった。
 しかし今は逡巡し、心臓を震わせてからの行動。手のひらに汗くらい溜まるのも当然だろう。これはこれで悪くはない。ぺたりと手に付く感触は気持ち悪さなど微塵も感じさせなかった。 昨日より更にくっついている気がして、寧ろ気持ちがいい。
 そう感じてしまった自分にたっぷりの皮肉を籠めて
「重症…」
 一言漏らす。
 もう一度ゆっくり頬を撫で廻すと
「それはこっちのセリフアル」
 といって、沖田の手を思い切り叩いた。神楽は起き上らず、沖田の方を向いている。アイマスクはしたままだった。
「勝手に触るんじゃねぇヨ」
 何様のつもりだ、と続けて神楽は顔を空に向けた。
「なんで俺のアイマスク持ってんでィ」
 自分が触っていたことは棚に上げておいて、そう文句を言ってやった。
 神楽はああん?と沖田に牽制をかけたが、答えないのでフンと鼻を鳴らして
「…見えると思ったアル」
 またも想像を越えたレスポンスであった。
「何が」
 "何が"という言葉か"意味がわからない"という返答すべき言葉の二者択一を迫られたが沖田は少しでも話が広がる方である前者をチョイスした。
 神楽は一瞬考え込んむ素振りを見せ
「お前が私をどう見てるか、このアイマスクなら」
 理解かると思った―そう口にした。
 沖田は愕然とした。読んで字の如く開いた口が塞がらない。神楽がアイマスクを未だ着用したままでよかったと思った。
 キスまでして、ここまでしてるのに「どう見てるか」だと?
 恋愛に関しては点でダメだとは思っていたがこれもまた想像を越える。いや、創造を超えるといった方が適格かもしれない。
「どう見てるも糞も…ここまでして分からないっていうのはどうかと思うぜィ」
「だって言ってくれないと分からないヨ。お前の場合さー、ただの嫌がらせである可能性の方が高いし サディストだし」
「サディストは関係ないだろィ」
「いや、あるネ。私が一日中困惑する様を見て楽しんでたのかも知れないし」
「……………お前、今日困惑してたの?」
 そういうと神楽は黙って沖田に背を向けて
「…昨日、全然眠れなかったアル」
 沖田はその小さな背中をじっと見ていた。
 耳にはまた飛行機の音がする。経路が違うのか先程よりも低く、地鳴りがする程の音を鳴らしている。 神経を集中させないと神楽の声を見失ってしまいそうだった。
「…一緒に帰るとか言いだすし、喧嘩ふっかけてこないし、なんかムーディな感じな所選んで歩くし、 いきなり手首つかんで、何かと思ったら顔近付けてくるし………キスとかするし、意味わかんないヨ」
 一旦息をついて神楽は続けた。
「昨日眠れないからやけにナチュラルハイになるし、お前の顔ちっとも見たくないし、 ご飯全然食べれないし…昨日あんなことしておいて何も言わないし。 なのに黙ってべたべたべたべた触るし。 どーしてくれんだヨ。もう私の事が嫌ならちょっかい出すのとか、冗談でとかならやめてくんない? こういうの、本当にヤダ…キスとか軽くするもんじゃないし」
 話す度に細々になっていく声を聞きながら沖田は、息を吐いて空を仰いだ。
 空にはまたも音より遅れて飛行機を確認し、また飛行機雲が空を二つに分かつかの如くラインを引いていた。 先程見たものよりも濃く、太く、はっきりとしている。いつものようにすぐに消えて曖昧になってしまう飛行機雲とは違う。
 また飛行機が果てに行くのを確認しながら沖田は背を向けている神楽に近づき、アイマスクに親指をかけ、ぐ、と上げた。 前髪が無造作に上がり、眼は真っ赤になっていて、頬も鼻の頭も同様だった。
 アイマスクの裏側は涙と汗でぐちゃぐちゃになってしまっていた。苦情を申そうかと思ったが今はするべきではない。
「…なんだヨ」
 寝ている神楽の上に沖田が跨ると、そう文句を言ってようやく沖田と目を合わせた。
 今にも泣き出しそうな神楽を見て沖田は心底申し訳ないと思った。想像よりも解ってないのは自分も一緒だったとは。
 手の平や指で涙のあとを拭ってやれば、神楽の目からまた涙が溢れてくる。拭っても拭っても溢れてくるものだから途中で諦めた。
「ふざ…けんなヨ」
「おー泣け泣け」
 そう呆れたようにいうと神楽の目からは、ぶわわ、と更に涙が滝の如く流れ出していく。涙だけではなく鼻からも額からもだらだらと水分を垂れ流した。
「おまっ、お前が!」
「じゃんじゃん泣け」
「ここは慰めるところだろうがァァァァ!!おちょくるのもいい加減にするネ!!!」
「チャイナ」
 神楽はその声で我に返った。涙で見えなくなっていたが沖田が心配そうな顔で自分を見ていることに気がついた。神楽はようやく自分の手で顔の水分を拭き取った。
 沖田は胸を大きく膨らませ、緩慢としたモーションで口を開いた。
「おちょくったつもりでする気もないんで」
 そういってそのまま唇を神楽に落とすと言葉の意味を解すのに数秒かかったが、理解し始めたころに神楽はゆるゆると瞳を閉じた。
 神楽が眼を閉じる瞬間に見えた晴天に映える飛行機雲は昨日の夕日よりずっと綺麗だった。
 本鐘が聞こえたが二人の耳にはまったく届かず、昨日よりも想像よりも優しいキスに神楽はすっかり陶酔しきり、沖田はもう神楽しか見えてなかった。

 血の味がする。どうやらキスをしている最中にまた傷口が開いてしまったようだ。その上ピリピリと痛みが広がったが沖田にとってはそれは今はどうでもいい。 隣で首まで赤くしている彼女をからかう程、彼は馬鹿ではなかった。
 神楽の方は寝転がりながら空を仰ぎ見ている。飛行機雲はまだ色濃く残っている。隣で沖田はその様子をじっと見ていた。
 時折どこかの教室で机と椅子が移動するような音が聞こえるが屋上には沈黙が淡々と流れる。だけれど気まずい静けさではない。むしろ心地よいといっても過言ではなかったがそれを神楽はあっさりと切った。
「夕方雨降るアルヨ」
「こんな晴れてんのにかィ?」
「うん。飛行機雲が15分以上残ってると雨降るネ」
 パピーからの受け売り、と神楽は続けた。
「傘持ってきてねーや」
「いいよ、私が入れてやるヨ」
 アイマスク、ぐちゃぐちゃにしちゃったし。と一言付け加えた。
「弁償も糞も窃盗でさァ、人の大切なモン、盗るなんざ」
「お前も盗ったアル、私の初キス」
 にやりと笑った姿はいつもの神楽だった。冷静を装い沖田は
「そこはハートって言って貰わなきゃ困りまさァ」
 と返答する。
「おまえ馬鹿ダロ」
 キスとか言ってる奴に言われたくはないと反論してやろうと思ったが、 ここでいつもどおりのセリフを吐いてしまえば雰囲気もぶち壊しになるだろうと思い、やめた。
 じょじょに普段の神楽に戻っていく姿に沖田は安心をしつつ少し残念な気分にもなった。 あんな風になってくれるのはこれから先なかなかないだろうと可笑しいほどに確信があったからだ。
 しかしそれでも常に想像を雲よりも越えてしまいそうな女ではあるからきっと泣き顔よりもすばらしいものを見せてくれるに違いない。
 沖田はぐしょぐしょのアイマスクを陽のあたるところに置いてそのまま神楽の隣りに寝転がった。
「…授業はどうするアル?」
「サボる、SHRまで…いや、雨降るまでか」
 寝転がった瞬間、恐ろしい勢いで睡魔に襲われた。
 悩みが無くなった瞬間睡魔にいともたやすく浸食されるとは。余りにも単純な自分に自嘲する。 神楽の方もこくりこくりとしていてこいつも単純なんだ、と沖田は眠い頭で思う。
「あー、ヤバ…寝るアル」
 おー、寝ろ寝ろィと言って沖田は続けた。
「俺も昨日、全然眠れてないんでィ」
「…………そっか…」
 そういって神楽はそのまま瞳を閉じ、沖田は神楽の方に向きなおして腕を枕にしてお互いに夢の世界へ出立しようとした。

 また聞こえてきた飛行機のエンジン音を子守唄にして。
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